「台湾民族研究の巨匠」

伊能 嘉矩 (いのう かのり)

平埔族写真

 

伊能 嘉矩 

(慶応3年5月9日(1867年6月11日) – 大正14年(1925年9月30日) 岩手県出身)

伊能嘉矩写真1

 

伊能は若くして漢語に興味を持ち、東京人類学会等に参加し多くの言語を学ぶ。

1895年、初めて台湾に渡り、1896年に「台湾土語講習所」で、
台湾語(ミンナン語)とタイヤル語(台湾原住民 泰雅(タイヤル)族の言葉)を学び、
マレー語も同時に独学する。

1900年、台湾慣習研究会が設立、幹事(会長は 児玉源太郎総監)になり、台湾の民族調査を始める。

1922年台湾総監府史料編纂委員会の嘱託となる。

その間、台湾原住民に関する多くの書籍を発表、
「台湾文化志」は、現在でも台湾の歴史、文化、民族学の百科事典として、評価されている。

(出典:「中国ビジネスは台湾人と共に行け」小学館)

 

伊能 嘉矩
(いのう かのり、慶応3年5月9日(1867年6月11日) – 大正14年(1925年)9月30日)は、日本の人類学者・民俗学者。
明治時代においていち早く人類学を学び、特に台湾原住民の研究では膨大な成果を残した。
郷里岩手県遠野地方の歴史・民俗・方言の研究にも取り組み、遠野民俗学の先駆者と言われた。梅陰子という筆名での著作も多数ある。

明治28年(1895年)、日清戦争の結果、日本に割譲された台湾に興味を持ち、
台湾総督府雇員となって台湾全土にわたる人類学調査に取り掛かった。
その調査結果は、『台湾蕃人事情』として台湾総督府民政部文書課から刊行された(粟野伝之丞との共著)。

明治39年(1906年)帰国後は、郷里遠野を中心とした調査・研究を行うようになる。
この間の著作に『上閉伊郡志』『岩手県史』『遠野夜話』などがある。
研究を通じて柳田國男と交流を持つようになった。
郷里の後輩である佐々木喜善とともに柳田の『遠野物語』成立に影響を与えた。

大正14年(1925年)、台湾滞在中に感染したマラリアが再発するという思いがけない死を迎えた。59歳であった。

死後、柳田は伊能の残した台湾研究の遺稿の出版に力を注ぎ、それは昭和3年(1928年)『台湾文化志』として刊行された。

出典:Wikipedia 伊能嘉矩

 

【勝手なコメント】

下の伊能嘉矩の調査ノートを見ると淡水、北投など台北の周りにも数多くの原住民の部落が存在していたことが分かります。

私たちは、原住民は台湾東部、中南部の山麓にしか原住民はいないと考えがちですが、原住民は台湾の各地に存在していたことが分かります。

少なくとも、日本帝国政府は彼らの存在を認め、調査し、言葉から風俗文化を研究してきたと思います。

彼らの存在を限定的にしてきたのは、誰でしょうか?

 

伊能嘉矩 淡水地区原住民分布図

噶瑪蘭與凱達格蘭|凱達格蘭社會文化
参照:平埔族の社会文化 台湾大学人類学部

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style=”color:#0070C5;” href=”http://www.fukyo.co.jp/book/b92350.html” target=”_blank”>伊能嘉矩蕃語調査ノート – 株式会社 風響社
伊能嘉矩著作 蕃語調査ノート

必見!

伊能は台湾の「公視」テレビ局でも

【台灣百年人物誌】伊能嘉矩 

として、放映されている。

 

台湾でも伊能の業績は、多くの本で紹介されている。

||| 國立臺灣大學-出版中心 (National Taiwan University Press) |||
伊能嘉矩ー台湾歴史民俗誌の展開 台湾大学出版

博客來-台灣踏查日記(上):伊能嘉矩的台灣田野探勘(2版1刷)
台湾調査日記 伊能嘉矩著作 楊南郡翻訳

我々日本と台湾の偉人 伊能嘉矩先生について、詳しい情報をお持ちの方は、ぜひ情報提供をお願いいたします。

よろしくお願いいたします。

Fuji3

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Fuji3(富吉 桑)

Fuji3(富吉 桑)

日本と台湾を月半々のデュアルライフをしているビジネスマン。日系企業の台湾代表や台湾政府系シンクタンクの顧問をしている。台湾歴29年、台湾大学卒業(国際貿易系 ・大学野球部)、台湾輔仁大学で日本語講師4年半で約3000人を教える。その他、中国語講師やアジアビジネスセミナーなども行う。「台湾から中国・アジアそして日本を見極める!」がモットー。 一言:このブログを通して、アジア・台湾と日本の良さを伝えたいと思っています!              詳しい管理人のプロフィールはこちら