「台湾生まれで(湾生)台湾を愛した画家」

立石 鐵臣 

(たていし てつおみ)

立石鉄生 「吾愛台湾」S23.12.5

「吾愛台湾」

昭和23年12月5日、我れ台湾を去る。わずかの留用日本人を残し、殆ど最後の引き揚げ船と云う。

バイキング船の如く、二本マストの日本の練習船なり。キールン(基隆)の波止場を埋め尽くして台湾人の見送りなり。

船が動き出すや波止場より日本語の「蛍の光」の大合唱起こる。日本語は当時大っぴらには使えない事情にあった。かまうものかの表情で、心行くまで歌う様子。

ランチ(小型艇)二艘が船を追い、波止場をかなり離れるや、日章旗を出して振る。

日本人への愛情と大陸渡来の同族へのレジスタンス(抵抗)でもあろう。

吾愛台湾 吾愛台湾

1962年春 立石 鉄臣

 

 

立石鉄臣 (1905.3.11-1980.4.9  台北生まれ)

立石鉄生写真01

「台湾民族版画の第一人者」

号は、「立石青玄」。立石は、1905年に台湾 台北東門街で生まれた日本画家。
1913年(鐵臣8歳)から1933年まで日本で育ち、画家の道を進む。
1934年に再度訪台し、第8回台湾美術展覧会に出展、「台日賞」を受賞する。
同年台湾の画家7名で「台陽美術協会」を創設する。発起人で唯一の日本人となる。
その後、1939年には台北に定住し、台北帝国大学理農学部嘱託となる。
1941年7月には金関丈夫らが創設した「民俗台湾」(前出)の編集作業に加わる。
その間も台湾の各種風俗を版画で表し、「台湾民俗図絵」などを連載発表する。
敗戦後も、台湾大学文学院史学系講師として残り、1948年に帰国する。
帰国後も1962年に「台湾画冊」を発表。1980年に、肺炎で逝去。
1996年には、台北県立文化センターで「立石鉄臣画伯記念展」が開催されるなど、その貢献が認められている。
(出典:「中国ビジネスは台湾人と共に行け」小学館)

 

立石鐵臣 画伯については、台湾版のWikipediaの方が詳しく書いてくれています。

台湾のこの方面の記述には頭が下がります。謝謝台湾朋友!

立石鐵臣 (Tateishi Tetsuomi,1905年-1980年),本籍日本,出生於日治時期的台北東門街。知名畫家,為「台陽美術協會」發起人之一。
西元1905年(明治38年)3月11日生於臺北城內區東門街,是所謂的「灣生」(指日治時期在臺灣出生的日本人)。
父親立石義雄時任臺灣總督府財務局事務官,後任臺灣瓦斯株式會社董事。

1911年4月,立石鐵臣進入臺北市第二小學校(旭小學校)就讀;1913年,隨父親調職而舉家返回日本,轉學至東京的日野小學校。
1917年4月,入明治學院中學部。1921年進入川端畫學校,追隨円山四條派的老師學習日本畫,該派的繪畫技法乃是以寫生和粉本臨摹為基礎。
1926年,受岸田劉生影響而開啟對後期印象派的興趣,踏上學習油畫的道路。 1929年因為岸田病逝而轉向梅原龍三郎學畫。
從十六歲習畫以來,立石鐵臣在十餘年間多次入選國畫會展、槐樹社展等展覽,傑出的作品包括「樹間」、「春小景」、「五月風景」、「海邊」、「郊外」等以風景為主題的油畫。

1933年,二十八歲的立石鐵臣來臺寫生、舉行畫展,停留三個月即返回日本,並以在臺創作的「萬華」、「多雲日子的河岸」、「山丘小鎮淡水」、「植物園之春」等作品入選日本國畫會展,受推薦為該會會員。 1934年7月至1936年3月,立石鐵臣再次旅居臺灣。期間曾受顏水龍之邀,於1934年9月加入「臺陽美術協會」的創會陣容,後來在1935年7月退出該會。 1935年,立石鐵臣與西川滿等人成立「版畫創作會」,蒐集、創作與臺灣鄉土民俗有關的版畫作品,並發表同人雜誌《媽祖》。
1936年,立石鐵臣負責《媽祖》第二卷第二期封面版畫,這是他最早的書籍裝禎作品;
1937年,為西川滿的《亞片》設計封面。在油畫創作方面,除了持續參加國畫會展之外,立石鐵臣也參加臺展、臺陽會展,此時期的主要作品有:「大稻埕」、「竹筏風景」、「赤光」、「原野與甘蔗田」等。

1936年3月在臺舉行「告別洋畫個展」後,立石鐵臣返回東京,住在藝評家福島繁太郎家中,為福島管理歐洲近代畫作收藏品。
立石鐵臣回到日本後依然創作不輟,有「海邊之家」、「七里之濱」、「半月橋」、「來青閣」、「迴廊」、「日輪」、「黃昏」、「遠眺海岸」等作品。
1939年10月底,立石鐵臣獲臺北帝國大學理農學部部長素木得一教授的聘請,赴臺從事繪製昆蟲標本的工作。
描繪標本細密畫之餘,立石鐵臣仍致力於油畫、版畫的創作,並撰寫美術評論,此時期的重要油畫作品包括:「濱風」、「砂丘」、「堊」、「夕雲」、「林投」、「壁‧道‧雲」。
1940年,立石鐵臣為黃鳳姿的《七娘媽生》和《七爺八爺》、西川滿的《梨花夫人》和《華麗島頌歌》、中山省三郎的《羊城新鈔》設計封面並負責書籍裝禎;
1941年則設計了西川滿《採蓮花歌》的封面,也陸續為《民俗臺灣》繪製封面及插畫、更在該刊開闢圖文並茂的「臺灣民俗圖繪」專欄,同時在《臺灣日日新報》、《臺灣時報》、《文藝臺灣》等報刊發表美術評論、隨筆或插畫、封面畫等等。
1941年,與臺北帝大教授工藤好美的妹妹工藤壽美結婚。

1942年4月辭去臺北帝大的工作,轉而擔任東都書籍公司的編輯,負責《民俗臺灣》雜誌的編務,並陸續為西川滿《赤崁記》、西川滿和池田敏雄合編的《華麗島民話集》、池田敏雄等人合著的《臺灣文學集》、黃鳳姿《臺灣的少女》、楊雲萍的詩集《山河》等書籍設計封面裝禎。

1943年8至9月,應總督府文教局的指示,與金關丈夫共同進行環島一周的民藝調查,9月發表〈生活工藝品的反省〉。
1944年7月,池田敏雄入伍,金關丈夫、立石鐵臣接掌《民俗臺灣》編務,立石鐵臣還為池田敏雄《臺灣的家庭生活》一書校對文稿、撰寫後記、提供圖繪;同年8月,立石鐵臣應徵召入伍,隨軍隊駐紮於花蓮港,這段從軍經驗後來也成為《臺灣畫冊》的題材之一。

1945年戰爭結束後,立石鐵臣以日僑的身分被中華民國政府留用,擔任東都書籍編輯、臺北師範學校美術教師。
1946年辭去師範學校教職,轉任省立編譯館技佐。
1947年5月,轉任臺大史學系南洋史學研究室講師,並管理史地圖錄室。

1948年9月,立石鐵臣的〈臺灣原住民族工藝圖譜〉連載於《公論報》;10月,為臺灣省博覽會繪製「臺灣先史時代人生活復原圖」;12月返回日本。

四○年代初期,立石鐵臣的工作重心集中於支應學術研究所需的標本細密畫,油畫作品僅有「蓮池日輪」及「正午雲」;
這段時期的立石鐵臣大力投入民俗藝術、書籍裝禎方面的創作,先後爲《民俗臺灣》製作三十七幅封面、四十五幅「臺灣民俗圖繪」專欄的版畫作品、以及兩百多幅小插畫,作品質精量豐,是該刊美術編輯上的靈魂人物。

返回日本以後的立石鐵臣除了持續油畫創作之外,也將細密畫的技巧糅合於油畫當中,呈現超現實主義的風格。
1949年起至1979年,立石鐵臣幾乎年年參加國畫會展。
1950年9月,立石鐵臣與國畫會同人香月泰男、福井敬一、須田剋太等組成「型生派美術家協會」。
1962年,爲紀念有知遇之恩的藝評家福島繁太郎,以「臺灣民俗圖繪」為底本的《臺灣畫冊》付梓。
1965年,舉辦「素描著彩,追憶之島」個展,展出以臺灣風物為主題的素描、淡彩作品。
1969年,擔任美學校細密畫工房講師。
1978年,出版與次子立石雅夫合著的《細密畫描法》(美術出版社)。

1980年4月9日,因肺腺癌病逝,享壽七十五歲。

 

立石鉄生 台湾版Wikipedia (中国語)

立石鐵臣 – 维基百科,自由的百科全书
立石鐵臣[编辑] 立石鐵臣 (Tateishi Tetsuomi,1905年-1980年),本籍日本,出生於日治時期的台北東門街。知名畫家,為「台陽美術協會」發起人之一。 生平[编辑] 西元1905 …
出典:Wikipedia 立石鉄生

 

 

 

【注目ポイント】

上の中国語版Wikipediaには; 立石画伯は 日本統治時代の台北東門街生まれ。

「台陽美術協会」の発起人の一人。 昭和20年の終戦後、台湾に残り台北師範学校の美術教師となる。

  など詳しく書いてあります。

 

【台湾の本】湾生・風土・立石鐵臣

博客來-灣生.風土.立石鐵臣
【台湾の本】湾生・風土・立石鐵臣

参照:重見立石鐵臣的台灣之愛 台湾URL

重見立石鐵臣的台灣之愛
重見立石鐵臣的台灣之愛 …
参照:重見立石鐵臣的台灣之愛 台湾URL

参照:立石鐵臣画伯の美術技法関連の本


細密画描法―細密画の学び方、技法、展開、系譜 (1978年) (新技法シリーズ) …
細密画描法―細密画の学び方、技法、展開、系譜 (1978年) (新技法シリーズ)

我々日本と台湾の偉人 立石鉄臣先生について、詳しい情報をお持ちの方は、ぜひ情報提供をお願いいたします。

よろしくお願いいたします。

FUJI3

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Fuji3(富吉 桑)

Fuji3(富吉 桑)

日本と台湾を月半々のデュアルライフをしているビジネスマン。日系企業の台湾代表や台湾政府系シンクタンクの顧問をしている。台湾歴29年、台湾大学卒業(国際貿易系 ・大学野球部)、台湾輔仁大学で日本語講師4年半で約3000人を教える。その他、中国語講師やアジアビジネスセミナーなども行う。「台湾から中国・アジアそして日本を見極める!」がモットー。 一言:このブログを通して、アジア・台湾と日本の良さを伝えたいと思っています!              詳しい管理人のプロフィールはこちら