恨みを愛に換え 身も心も台湾 タイヤル族に捧げた日本人

本名:井上 伊之助(いのうえ いのすけ)

中国語名:高天命

タイヤル族名: トミヌゥン ウトォフ
       (Tominun Utof 德密嫩·烏豆夫 )

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井上伊之助 (1882.9.2-1966.9.2  高知県出身)

井上伊之助写真01

 

井上伊之助は、父を台湾原住民に殺されるが、その後 逆に台湾に渡り 医学とキリスト教の布教により原住民を見守り続けた。

日本敗戦後も、台湾政府に申し出て、医療行為や伝道を続けた。その際に中国名を使い、「高天命」と名乗る。

1947年228事件の際に、やむを得ず帰国。帰国後も東海大学で教鞭を執りながら、台湾原住民について講演や執筆を続ける。

1966年神戸で死去。

埼玉県の入間メモリアルパークの井上の墓標には”トミーヌン・ウットフ”(台湾 タイヤル族語)「神は織り給う」と刻まれている。

井上伊之助墓標

 

 

 

【「神は織り給う」の意味 】

「神は織り給う」とは 井上が自身の人生が「手際見事に織り給う神のたくみの尊さ」によって、
タイヤル族や台湾と知り合え一体になれたことを感謝していると考えることが出来るのではないだろうか。

現在でも、台湾のキリスト教関係者は、井上伊之助を偉大な布教者として、認めている。

 

「恨みを愛で包容した日本人」

井上はクリスチャンで、父親は台湾 花蓮で原住民に殺害される(1906年)。

1911年に家族とともに台湾に渡り、新竹の山地原住民居住区で医療活動と布教活動を行う。

途中1917年から1922年まで自身の治療のため帰国するが、1922年に再度台湾に渡り、山地で布教の巡回を始める。

1930年には医師資格を取得、敗戦後の1947年 中華民国国民政府から帰国命令がでるまでの30年余り山地原住民への布教を行った。

台湾では父への恨みを愛で容認した「台湾山地布教の父」と呼ばれている。

また、埼玉県にある井上の墓石には、「神は織る給う」の意味の泰雅(タイヤル)族語「トミーヌン・ウットフ」と刻まれている。

(出典:「中国ビジネスは台湾人と共に行け」)

タイヤル族と 井上伊之助(左端)


井上伊之助氏の資料もやはり台湾で調べる方が多くの文献、資料を見つけることが出来る。

 

参考:井上伊之助 – 維基百科,自由的百科全書 神わ織り給 … 井上伊之助 台湾版Wikipedia





基督山恩仇記 超越仇恨‧以愛編織 – 台灣教會公報新聞網 台灣山地宣教之父井上伊之助 … 台湾教会公報より 台湾山地宣教之父 井上伊之助

 

 

井上 伊之助(いのうえ いのすけ、1882年(明治15年) – 1966年(昭和41年))は、日本出身の台湾宣教師である。 

1882年(明治15年)、高知県幡多郡川崎村(現、西土佐村)に生まれた。小学校は高等科で終了して、病院や村役場に事務員として勤務した。
1900年に立身出世を願い、東京に移動して昼間は郵便局に勤め、夜は大成学館で勉強をした。
この頃、メソジストの本郷教会に通い、内村鑑三の著作を読んで求道した。
1903年より、中田重治の指導する神田の中央福音伝道館に通い、1903年6月中田より洗礼を受けた。
1905年9月に東洋宣教会の聖書学院に入学した。聖書学院校長の笹尾鉄三郎より薫陶を受ける。

1906年7月、聖書学院の2年次のときに父が台湾の花連港で樟脳作り作業中に、山地族のタイヤル族に襲撃を受けて殺害された。
1907年井上は聖書学院を卒業すると、ヘフジバ・ミッションという宣教団体に入り千葉県佐倉市で伝道した。
佐倉時代に内村鑑三の講演会に出席し、内村から信仰の指導を受けた。その後小野千代と結婚した。

1909年の夏、銚子の犬吠埼の海浜で徹夜祈祷をしていると、台湾山族伝道への召命を受けた。
佐倉の伝道師を辞職して、中田重治の紹介で伊豆の下田で開業していた諏訪医師の下で8ヶ月医術を学び宣教師の備えをした。

1911年10月、日本伝道隊のパゼット・ウィルクスの支援により、単身で台湾宣教に赴いた。台湾の基隆に到着して、タイヤル族への伝道を始めた。
台湾総督府より蕃地事務を委嘱されて、カラパイ蕃陣診療所に勤務した6年間医療活動を行った。 帰国中5年間療養生活を経て日本聖公会に加入して、約三年半種子島で伝道した。
1922年にに2度目に台湾に渡った。 1930年に台北で現地開業医試験に合格して資格を取り、本格的な医療伝道に乗り出した。10月27日に霧社事件が起こった。
1931年にバイバラ社の嘱託医になり、川中島に強制移住させられた霧社事件の関係者を心をこめて診療した。
1932年から1936年まで、標高1800mのマレッパ社で公医として勤務した。ブヌン族の診療に当たった。 1941年4月内湖から、台北の仁済病院に移り、勤務した。
1944年には仁済病院を辞して、台北郊外の松山にある総督府立の養神院(精神科)に移った。

1947年、帰国命令が出て、5月3日に基隆を出発して日本に帰国した。帰国後、山地族にリバイバルが起こった。
帰国後は、静岡県の清水に住み、東海大学で保健衛生の教鞭を執った。その傍ら、台湾山族について講演活動や出版活動をした。1966年神戸で84歳で死去した。

(参考 出典:Wikipedia 井上伊之助)

井上伊之助 について、さらに詳しい情報やエピソードをご存じの方はぜひ情報をお寄せください。

また、その他「アジアの中の日本人」で取り上げてもらいたい人物の推薦や情報があれば、ご教授よろしくお願いいたします。

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Fuji3(富吉 桑)

Fuji3(富吉 桑)

日本と台湾を月半々のデュアルライフをしているビジネスマン。日系企業の台湾代表や台湾政府系シンクタンクの顧問をしている。台湾歴29年、台湾大学卒業(国際貿易系 ・大学野球部)、台湾輔仁大学で日本語講師4年半で約3000人を教える。その他、中国語講師やアジアビジネスセミナーなども行う。「台湾から中国・アジアそして日本を見極める!」がモットー。 一言:このブログを通して、アジア・台湾と日本の良さを伝えたいと思っています!              詳しい管理人のプロフィールはこちら